【展覧会レビュー】
天使¹の²舌³はパンの耳⁴/襤褸⁵の響き⁶を懐かしむ⁷
執筆:伊澤拓人、片田甥夕日(pH7)
この度、視覚表現と言語表現を架橋する活動を展開するコレクティブpH7の伊澤拓人氏と片田甥夕日氏から、2023年10月に開催したGinza Curator’s Room #005 藪前知子『天使のとまり木』へのレビューをご提供いただきました。
恩寵や主体といった隠れた重要なテーマについて、深く考察されています。
この機会に、展示風景とともにご紹介いたします。
左から:
益永 梢子 A-1, A-2, A-3
恩地 孝四郎 無題
上田 良 METAL GLUE(メビウス、球、四角、ミラー)
(1)恩地《無題》は、細長い直角三角形の板を背景に、石や金属片や木片がビスで組み合わされ立体を形成する作品である。素材は戦後の瓦礫から集めたものと言われ、作家自身はそうしたガラクタを集めて遊ぶのを「ひまのおつきあい」と呼んでいたらしい。本展¹⁻ᵃ のキュレーター藪前は、この作品を「天使のような」と形容する。確かに丸い頭部と翼を持ち、ふと木にとまったように見えてくる。瓦礫の組み合わせ¹⁻ᵇ から奇跡のように生まれたこの作品から抽き出される、一回性、瞬間性への着目から、この展覧会は生まれている。偶然¹⁻ᶜ に集まったガラクタが、ある組み合わせ方をした途端に芸術作品となる、しかし次の瞬間にはまたガラクタに逆戻りしているかもしれない、その一回性と瞬間性¹⁻ᵈ 。さらに「天使」というゲシュタルトが与えられ、部屋の奥の壁に架けられている。この作品は脆さと完全性を痛々しいまでに湛えており、今にもはち切れそうな緊張感を放っていた。何か一つが欠けても、何か一つを付け加えてもその均衡が崩れてしまうような、その姿が目の前に存在しているという事実は恩地のもたらした恩寵と呼ぶにふさわしい気もする。(とまで言うのは、モダニズム的である。)
(1-a)「Ginza Curator’s Room #005 天使のとまり木」
キュレーター:藪前知子 作家:恩地孝四郎・益永梢子・上田良 場所:思文閣銀座 会期: 2023.10.07-21
(1-b)恩地をきっかけにして、展覧会に組み合わされたのは、益永梢子と上田良の二名である。彼らの作品もまた、「脆い立体を組み立てて生まれる一瞬」や「一時停止の状態で現れたような、可塑的で動的な印象」が特徴だという。
(1-c)偶然的な一瞬を生み出すための装置を作る必要性がある。その中で必ず偶然が発生するような装置を。もとより、偶然と必然は同一のものである。それを偶然と呼ぶか必然と呼ぶかは、われわれがその原理を把握できるかできないかによって決まる。偶然を飼い慣らすこと。一定の試行回数を積めば必ず偶然的、あるいは決定的な瞬間が訪れるような装置。そういう仕組みにわれわれは安心するし、そこでようやく行為へ向かうことができる。完全に決まりきっているのでも、完全によりどころがないのでもない、偶然が育てられているハウス。短歌や俳句は音数が決まっている以上、50 音の組み合わせからしても有限である上、詰められる単語や助詞を現実的に考えると、その組み合わせはもっと絞り込まれる。それにもかかわらず、これまで幾千の句や歌が作り続けられてきた。
(1-d)自由詩は、一回限りの定型を作ることだと言われる。俳句や短歌といった短詩型には、絶対的ではないが目安となる音数が決まっていて、それを守る分にもはみ出る分にも相関的に捉えることができる。したがって、「面白い俳句を打率高く作りたい」といった創作への意志が可能となる。美術においても、絶対的な一つの作品を作るということはもはやありえない。美術作家になることは、そこから様々なヴァリエーションを生み出すことができるやり方、フォーマットを作ることを意味する。作品を作るだけでは作家になれない。作家性を作ることが作家になることである。
(2)益永には、例えばいくつかの色で塗ったキャンバス布に切り込みをいれ、複雑に捻った上で頂部をクリップで留めた一連の作品がある。クリップは、メビウスの輪を幾重にも重ねたようなキャンバスの複雑な形がほどけないようにとどめる、と同時に、作品を壁に架ける²⁻ᵃことを可能にする。特徴的なのはタイトルで、《Therefore》²⁻ᵇ や《And》のように接続詞や前置詞がそれぞれ与えられている。それより前に言ったことと、これから言うことの関係性を示す接続詞(前置詞)は、発話全体の構造を決定しつなぎ止める機能(語)である、まさにクリップのように²⁻ᶜ。日常的な会話において本来バラバラな単語の組み合わせにすぎない発話が何らかのメッセージを伝え機能を果たすのは、そこに統合的な作用(=統辞)が屋台骨のように与えられているからだ。しかし益永の作品には骨組みはなく、ただかろうじてクリップの機能が全体の形を保っている。クリップを外せばキャンバスは平らに戻り、捩れや見え隠れする色面という意味作用は無効になってしまうかもしれない。作品としての統合されたイメージはバラバラに解体され、断片化してしまうかもしれない。ここに、可塑的に見えるものの「一時停止」の感覚が賭けられている。
(2-a)壁に架けられる立体である、という点で、恩地の作品と益永の接続詞(前置詞)のシリーズはレリーフという共通の様態を持つ。
(2-b)語が活躍している詩とは何か。素材が活躍している造形とは何か。例えば、おでんには何の脈絡もない。Nevertheless / Therefore、全ての具が活躍している。
(2-c)上田良の写真作品において、その全体の均衡を危うく保つのは、作家自身が「Metal Glue」と呼ぶカメラである。ガラクタを集めて組み合わせたようなオブジェが、水面や金属面や光と絶妙な関係を結んでいる様子が撮影される。重要なのは、まずそれらの関係を作り上げてからカメラで捉えているという順番ではないという点である。構成要素間の関係は、撮影される瞬間に、感光紙の上ではじめて結ばれるものだからだ。例えば《METAL GLUE(包まったグラデーション、オーロラ)》では、かなり強い照明をあてられた金属板の波打ちからくる反射光が、写真がプリントされた紙そのものの上で光っているように見える、まるでドリッピングされた絵の具のように。それが、写真に撮られたオブジェに分厚く塗られた塗料のテクスチャーと反応しあい、倒錯した奥行きがまさに写真上ではじめて生じている。
左から(いずれも上田良):
METAL GLUE(メビウス、球、四角、ミラー)
METAL GLUE(流れるローマングラスの切り抜き、ビニールオブジェ、ホイップ粘土)
METAL GLUE(オブジェのパチ組み)
(3)テクスチャーの質感は、上田の写真においてこちらに感情的負荷を与える明らかな特徴である。外国製のグミのように、何か柔らかそうな質感に包まれた小さなオブジェたちが平坦な色面に並ぶ《METAL GLUE(オブジェのパチ組み)》。水、ゼリー、ラミネートなどを思わせる多様な透明感を混ぜ合わせた《METAL GLUE(流れるローマングラスの切り抜き、ビニールオブジェ、ホイップ粘土)》。明度の高い画面に(絵画のように)配置³⁻ᵃ されこちらに迫ってくるさまざまな質感を、どれも「舌」で味わいたくなる。それらは視覚を通して触感(食感)を刺激する。
(3-a)これらの質感を「配置」した主体は一体どこにどのようにあるのだろうか。上田が用いるオブジェは、どれも偶然的に見つけられたものだという。「自分が勤務する美術大学で拾った廃材や偶然見つけたガラクタ、市販物を素材にオブジェを制作することが多いのですが、そうした「外部」と自分が出会ったときに、「こういうかたちを拾った。じゃあ次はどうするか」と、自分が起こす反応を重要視しています。着色された物体を見たときには、そこにどう自分が介入していくかせめぎ合いがありますし、同時に、「自分ってこういう色彩に惹かれるんや」とか、新たな自分を発見することもある。いつも素材を大量に拾い集めてくるところからスタートします」3-a’。あるオブジェが与えられたとして、事後的に自分の反応を惹起させるという手法は、奇しくもポロックのドリッピングに似て、外部に対する操作性をとおして主体性を育てる、再構成していくものだと言える。オブジェの発見は偶然だとしても、それを組み合わせ、演出し、写真に撮る(そこにまた光学的偶然も生まれつつ)、という工程のそれぞれに主体的な操作の余地があるだろう。試行を繰り返すことで、その操作は洗練されていくはずである。最終的な生産物としてのプリントされた写真に対し、ある程度意図した効果を与えることも可能になっていくだろう。それは、与えられたオブジェと、それを組み合わせ撮影するという工程に沿って、上田の主体性が再構成されたということでもある。
(3-a’)https://bijutsutecho.com/magazine/interview/14843
左上から(いずれも益永梢子):
線を追いかけ歩いていくと、元に戻ってしまった
日付のバトン、半円形のアーチに腰掛ける
愛おしくなるようなグリーンとは
闇は浮かんで、少しの囁きでバラバラになった
(4)食という問題系から、益永の絵画に触れないわけにはいかない。《線を追いかけ歩いていくと、元に戻ってしまった 》をはじめ一連の正方形の平面作品は、キャンバス上に分厚く塗った絵具の一部を剥がして反り返したり、マスキングされた直線的な色面を作ったり、ダーマトグラフの線が引かれたり、さまざまな操作によって画面上を賑やかにした作品だ。ここで前面化するのは、画面を(ほぼ)立体的に構成する、盛り上がったり、反り返ったりする絵具やキャンバスのテクスチャーだ。厚塗りされた白い絵具の層を見て連想したのは、シフォンケーキに塗るクリームである。へらを使って分厚く塗り広げていくホイップクリームの、表面に気泡の跡が細長く見えている感覚。益永にとってはそれはパン⁴⁻ᵃ に塗るバターなのかもしれない、キャンバスの判型が正方形である以上。作家の《Abstruct Butter》という連作は、毎朝食べるパンがバターなどなどによってどのように塗られ、盛り上がり、賑やかになるかを365 日記録した作品だ。パンの上の絵は、本当に食べられる作品である。目で見て、そして舌で味わう、そしてなくなる。食べ物であるから、食べられるか、腐るか⁴⁻ᵇ、つまり常に動的で、作品としての様態を持つのはほんの一瞬である。
(4-a) Demi-Relief という言葉があるが、益永の正方形の作品を形容するのにぴったりに感じる。それがパンであるのなら、壁にかける必要はなく、むしろ机や皿4-a’ の上において、水平面上に鑑賞されるべきかもしれない(展示状態と作品リスト上の画像の向きが異なっていたように、もし天地左右の区別が存在しないのだとしたら、なお。)
(4-a’) 皿に盛られた具材は、立体感を完全に失っている。皿という食材の枠、キャンバス、ページ。 具材が活躍している、味としてではなく、空間として。
(4-b)食われるか、腐るか。抜き差しならない二者択一から逃れるべく、人々はストーリー(物語)を求める。
(5)食は日常における最大の悩みであり、快楽であり、悲しみである。一日に三回の試行が身体と社会によって要請され、諸要素はさまざまな偶然によって条件づけられている⁵⁻ᵃ ゆえに、成功の確率はそれほど高くない。途切れることのない欲望に、自然のサイクルと経済的なシステムを通して備給される料理、あるいはガラクタとしての食材。得意不得意を問わず一生つづけていくこの試行は、まさに与えられた外部に対する、反応と主体化の繰り返しではないか。恩地、上田、益永が日々繰り返す制作もまた、日常的な諸条件への応答の連続だといえる。
(5-a)(少なくとも)展示されていた作品の製作は、さまざまな種類の偶然によって条件づけられている。その場にあるがらくたの種類、その場にある食材の種類、あるいはその日の体調、食欲、天候、光。作家は外部の条件に対して、作品が何とか作品として立てるように、暫定的な回答を出す、あるいはクリップで止める、あるいは接続詞で秩序づける。
(6)やはり恩地の作品と、並べられていた益永の《 A-1, A-2, A-3 》は、特権的な地位を持つ。それらは、(恩地の作品は「天使」というゲシュタルトによってさらに強化された形で、)それ以外の状態があり得ないからである。《 A-1, A-2, A-3 》、絵具、鉛筆、木目によるさまざまなテクスチャーが相互浸透、独特な透明感を表現する優れた平面作品だ。3 つの絵が壁に立てかけられて構成される様は、一見して動的にも見えるが、検討してみればこれ以外の置き方が想定されているようには思えない。右側に置かれた半円形に切り抜かれた絵が、他とうまくはまっているゆえに別様の順序や向きを許さないからだ。恩地の作品についてももしかしたら同じことが言えるかもしれない。立体レリーフをこのたった一つしか作らなかった彼の意図はいざ知らず。
(7)恩地の制作や、戦後のがれきから時間的に遠く隔たった私たちとしては、日常・偶然・主体の組み換え、という「ひまのおつきあい」を繰り返す余地は、毎朝のパン、あるいは日記⁷⁻ᵃ、ごみ拾い、といった場所にしか残されていないかもしれない。しかし手法の複雑さを自らに課しつつ、(ほぼ)平面上の質感を通して新しい感覚を追求することの、その可能性、その豊穣さが改めて確認された展示であった。
(7-a)間歇的に滾る思考を散らすために語を拾い、積む。自炊するように書かれる文章が日記だ。丁寧に皿に盛り付けられた料理の写真を毎日アップロードする。お気に入りのノート、あるいは単なる裏紙に筆を走らせた毎日の日記をアップロードする。
伊澤拓人
東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程在籍。国立新美術館研究補佐員。伊澤椅子名義でpH7に参加し、詩歌の制作、グラフィックその他のデザイン、執筆を行う。
片田甥夕日
詩人として『おのおの』等に寄稿、pH7に参加。寺道亮信名義で『得須得』『インカレポエトリ』『詩客』等で詩歌を発表。第9回詩歌トライアスロン三詩型鼎立部門次点。
pH7
視覚表現と言語表現を架橋する活動を展開するコレクティブ。詩歌とそれを載せる媒体を総体としてデザインした詩集=物体を制作し、書店等を通じて販売している。近作は『pH7.3 字・窓』(2023)。
Instagram:@ph7.collective