山本 浩貴
石をさがして
本田健、長谷川由貴、熊谷守一、片岡球子、徳岡神泉、小川待子、狩野芳崖、浦上玉堂、北山寒厳
山本 浩貴
石をさがして
本田健、長谷川由貴、熊谷守一、片岡球子、徳岡神泉、小川待子、狩野芳崖、浦上玉堂、北山寒厳
山本 浩貴
石をさがして
本田健、長谷川由貴、熊谷守一、片岡球子、徳岡神泉、小川待子、狩野芳崖、浦上玉堂、北山寒厳
2022.8.27 Sat. — 9.11 Sun.
会期中無休
10:00 — 18:00
山本浩貴
イタリア人グラフィック・デザイナーのブルーノ・ムナーリ(1907-1998)は、グラフィック・デザイナーのほかにも美術家、プロダクト・デザイナー、教育者(研究者)、絵本作家といった多種多様な表情をもつ多才な人物であるが、彼が創作した「石をさがして」という一編の詩には、「自然」と向き合うことの愉悦が高らか謳われている。そのなかでムナーリは、「色や形を求めて、石をさがすことには」、大きな「興奮と悦びがある」と宣言する。ここでの「石」を、たんに「自然」に属するとされるモノだけを指すのではなく、わたしたちを取り囲む世界や環境の全体を示唆していると理解してみたい。事実、このムナーリの詩を自身の本のエピグラムとして用いたことのあるグラフィック・デザイナーの戸田ツトム(1951-2020)を論じた文章のなかで、歴史家の鯖江秀樹は、自然を適切に観察するためにまず求められるのは、「知覚それ自体の変容」であると指摘している(『糸玉の近代 20世紀の造形史』266頁)。
有形無形、大小様々な「石」をさがして、本展では広く近世から現在に至るまでの日本美術史における作品を紹介したい。芸術家たちは「わたしたちを取り囲む世界や環境の全体」をどのように認識し、キャンバスのなかに描きだそうとしてきたのだろうか。花や滝といった具体的なモチーフもあれば、作家のイマジネーションのなかに広がる漠然とした世界の様相も含まれる。そうした、時代的にもモチーフの多様性という点でも非常に幅広い「自然」を表象した芸術作品を概観することで、この展覧会でわたしたちの「知覚それ自体」を変容させることを企てる。そして、「エコロジーの復権」や「環境危機」が声高に叫ばれる昨今の情勢において、わたしたちが世界との新しい関係性をとり結ぶ一歩となることを期待している。
山本浩貴
文化研究者、アーティスト。千葉県生まれ。一橋大学社会学部卒業後、ロンドン芸術大学にて修士号・博士号取得。2013~2018年、ロンドン芸術大学トランスナショナルアート研究センター博士研究員。韓国・光州のアジアカルチャーセンター研究員、香港理工大学ポストドクトラルフェロー、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科助教を経て、2021年より金沢美術工芸大学美術工芸学部美術科芸術学専攻講師。単著に『現代美術史 欧米、日本、トランスナショナル』(中央公論新社、2019年)、『ポスト人新世の芸術』(美術出版社、2022年)、共著に『トランスナショナルなアジアにおけるメディアと文化 発散と収束』(ラトガース大学出版、2020年)、『レイシズムを考える』(共和国、2021年)、『東アジアのソーシャリー・エンゲージド・パブリック・アート 活動する空間、場所、コミュニティ』(ベーノン・プレス、2022年)など。
「ニュー・アート・ヒストリー」という美術史上の潮流がある。1980年代の欧米を中心として活発化したこの潮流は、(ポスト)構造主義やフェミニズムの発展から影響を受け、これまで当たり前とされてきた美術史上の言説を再構成するものであった。この潮流にはいくつかの批判も提出されたが、これまで普遍的・客観的とされ、自明視されてきた美術史の語りを複数化した功績は大きい。美術の歴史を物語るナラティブは、つねに既存のものではないあり方の可能性に開かれていることを、ニュー・アート・ヒストリーという動きは教えてくれる。
本展に出展されている狩野芳崖、浦上玉堂、北山寒厳はもちろん、熊谷守一、徳岡神泉、片岡球子もすでに「美術史上の人物」になってしまった印象が強い。だが、彼・彼女らを小川待子、本田健、長谷川由貴という、世代やバックグラウンドの異なる、しかし今の時代を生きているアーティストたちの作品と並べてみたとき、どのような新しい美術史の語りが浮かび上がってくるだろうか。本展では、さまざまに異なる「自然の表象」という中心軸を設定して、そのような試みを行ってみたい。
「第1回薔薇会展」大阪なんば髙島屋、1962年
『熊谷守一画集 特別限定版』日本経済新聞社、1974
『熊谷守一油彩画全作品集』求龍堂、2004年
「清流会第16回展」兼素洞、1964年
『定本 徳岡神泉画集』朝日新聞社、1993年
『芳崖遺墨』畫報社、1902年
『狩野芳崖遺墨帖』西東書房、1911年
本田健
(1958– )
画家。山口県生。昭和62年岩手県遠野市に転居し、遠野の自然を主題に創作活動を続ける。
平成11年(1999)に文化庁派遣芸術家在外研究員として渡米。金山平三賞受賞。文化庁買上。国内外で展覧会開催多数。
岩手県住。
長谷川由貴
(1989– )
画家。平成元年(1989)大阪府生。京都市立芸術大学大学院修了。
京都の共同スタジオpuntoを拠点に、人間にとって完全な他者でありながら、歴史的に密接な関係を結んできた植物の姿に着目し絵画を制作。
大阪住。
熊谷守一
(1880–1977)
洋画家。岐阜県生。東美校卒。文展入選後、母の死を機に木曾山中で樵夫などをして五年間を過ごすが、斎藤豊作らのすすめで上京し、二科会会員となる。
戦後は二紀会創立に参加したが、のち退会する。作風は次第に色と形が単純化し、独自の様式が確立された。また水墨画、書も能くする。文化勲章や叙勲を辞退し、晩年は自由な生活と制作に専念、「画壇の仙人」と称された。
昭和52年(1977)歿、97才。
片岡球子
(1905–2008)
日本画家。北海道生。女子美術専門学校卒。吉村忠夫・中島清之・安田靫彦に師事。院展で活躍。日本美術院賞を続けて受賞し、同人に推挙される。
「面構シリーズ」は昭和41年(1966)から制作、連作として毎年発表され、ライフワークとなっている。女子美術大学教授をへて、愛知県立芸術大学教授となる。
芸術院会員。文化功労者。文化勲章受章。平成20年(2008)歿、103才。
徳岡神泉
(1896–1972)
日本画家。京都生。名は時次郎。京都絵専卒。竹内栖鳳に師事する。画風は初期の簡潔な写実的表現から、装飾的要素が加わった甘美で深味のあるものへと移る。
芸術院会員。帝展審査員。文化功労者。文化勲章受章。昭和47年(1972)歿、76才。
小川待子
(1946– )
陶芸家。昭和21年(1946)札幌生。東京藝大工芸科卒。卒業後パリに留学、次いで西アフリカ各地で陶芸を学ぶ。
「かたちはすでに在る」という考えのもと、陶土と釉薬が元来持つ物質としての魅力を引き出すべく制作する。日本陶磁協会賞、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
東京国立近代美術館・メトロポリタン美術館等、国内外にパブリック・コレクション多数。
神奈川県住。
狩野芳崖
(1827–1888)
幕末・明治の日本画家。長門生。名は幸太郎。狩野勝川院の門に入り、橋本雅邦と並び称された。
西洋画の写実技法や明暗法を取り入れ、日本画の新しい方向を求めた。また東美校の設立にも尽力した。
明治21年(1888)歿、61才。
浦上玉堂
(1745–1820)
江戸後期の文人画家。備前生。名は弼、字は君輔、玉堂は号、通称は兵右衛門、別号に穆斎。岡山藩に仕える。
のち琴を携えて遊歴、田能村竹田・木村蒹葭堂・谷文晁・岡田米山人と交わる。
晩年は京都に定住。絵は独学であるが、自由奔放な山水画は独特の気韻を持ち、日本南画の完成を見る。
文政3年(1820)歿、76才。
北山寒巌
(1767–1801)
江戸中期の画家。江戸生。
本姓は馬、名は孟熙、字は文圭(文奎)、通称権之助。幕府の御先手与力。画法を父馬道良に学び、山水人物を巧みにした。門人に谷文晁がいる。
寛政13年(1801)歿、35才。